今年の「桜」は例年より早く伊勢地方の「ソメイヨシノ」は終わりました。
昨日今日は落花盛んと言うところです。
私も写真に興味があってあちらこちらと写しに行きます。ところが桜は以外に難しい被写体なのです。花を写すだけならボタンや薔薇のほうがはるかに写し易い被写体です。
桜の花は日本人にとって「桜気配」があるのです。桜の持つ歴史や信仰、育ってきた環境などさまざまや要素が日本人に染み付いています。それらをどう表現するかいつも苦労しています。私のカメラの腕前はたいそうな物ではありませんが、それでも苦労します。
私のブログを見ていただくと解るように桜が本当に綺麗なのは三、四日です。しかもその時を狙っていたかのように、雨や風の洗礼を受けます。4月7日は伊勢市は入学式でしたが嵐でした。校門の前の桜は哀れな状態でした。
日本人は三、四日に無常の価値を置きます。
たった三、四日に命をかけて潔く散っていく桜に人生を投影し、他の花とは別格の美しさを見出しています。
伊勢の隣の松阪出身の本居宣長は
敷島の大和心を人問わば
朝日に匂う山桜花
と詠い、後に「武士道の象徴は桜の花」と言われるようになります。
日本語の慣用句に「花を持たせる」
というのが有りますが、連歌や連句から来た言葉ですが、連歌や連句では必ず「花」の句」を読み込みます。ここで言う「花」とは「桜」の花です。
連衆(グループ)の中に貴人が参加していれば、その人に「花の句」を所望して名誉を与えます。
見限りし故郷の山の桜かな 一茶
さまざまなこと思い出す桜かな 芭蕉
このように日本人は詩や俳句、川柳に「もののあわれ」と言う人間の脆さ、悠久の自然の中で移ろいで行くものに美を発見する独特の感性を持っています。
特に人間を読み込む川柳では「桜気配」と言う風情を読み込みます。
逝く時は花咲く時と決めている 絵日傘
きっと散る花だと花は想うまい 堤伴句
花まんだどこかで人の逝く話 矢須岡信
伊勢宮川堤の散り桜